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2011-10-16

知らぬは人の行く末の空

前回のあらすじ:
毛利と和睦した尼子義久・倫久・秀久兄弟は、城を明け渡して幽閉の身となる。
住み慣れた出雲を離れ、相思相愛の御台所とも引き離された義久は、
いつの日か毛利を討ち滅ぼすことを胸に誓い、屈辱の旅路を進む。


義久兄弟芸陽へ下向のこと(下)

石見路を過ぎるときに義久が「ここは何というところだ」と尋ねるので
「ここは高津の浦でございます」と答えると、義久は
「ほう、ここが有名な高津の浦か。昔、第四十一代の持統天皇の御時、慶雲四年、
人丸(柿本人麻呂)がこの地で死の床についたとき、名残を残す高津の浦を吟じて
『嶋隠船心頭真面目広却已前の先石見潟高津の松の木の間より浮世の月を見果てぬるかな』と
詠んだのもここでのことだろう」と思った。
自分もここで死ねば、人丸と同じく配流の地で浮世の月の見納めとなるだろうと心細く思いながら、
そこを過ぎるまでに数日を要した。

同十二日には出羽という所に着き、翌十三日には横田に着いた。
着慣れぬ旅装束を着て、何日も経っているので体も疲れ果て、
一旦どこかに滞在して旅の疲れを癒したいと思っても、守護の武士たちは絶対に許してくれない。
同じ宿に二度泊まることすらなく、かりそめの旅の宿さえも名残惜しく思いながら出立する。
「(白浪の寄する渚に世を過ぐす海人の子なれば宿も定めず」(新古今和歌集・詠み人知らず)という歌は
まったく自分にふさわしいと感じて、(前世の)報いのすさまじさを恨めしく思った。

翌十四日、安芸の国の長田という所に着くと、すぐに長田の内藤下野守に引き渡され、
円妙寺という禅寺に押し込められた。
柵を二重三重にめぐらせて、警護の武士をあちこちに配置している。
吉田からは少輔五郎、元春からは二宮杢助、隆景からは宗近加賀守が遣わされ、付け置かれた。
人の出入りも許されず、夢を破る秋風、軒から漏れてくる月影のほかは、訪ねてくる者もなかった。
竹の柱を見ては「うき節(本歌:今さらになにおひいづらむ竹の子のうき節しげき世とは知らずや)」
(古今和歌集・凡河内躬恒)=つらいことが多い世の中だと思い、
一人萱の軒端の月を見るにも「知らぬは人の行く末の空
(本歌:命あれば茅が軒端の月もみつ知らぬは人の行くすえの空)」(後鳥羽院)と詠んだ昔を偲ぶ。
「天子の位にある人でさえもこのようなお嘆きをされたのだから、
どうして我らのような戦争に携わる身が、このような配流の地で月を見て嘆くのを咎められようか」と
自分を慰めていた。

御台所は阿佐の観音寺という尼寺に入り、髪を削ぎ落として受戒し、鈍色の衣に身を包んだ(尼になった)。
「かかれとてこそむは玉の(本歌:たらちめはかかれとてしもむば玉の我が黒髪を撫でずやありけん)」
(後撰和歌集・遍昭)という歌の心(幼いころに母がなでてくれた黒髪が落とされてしまった。
母はまさかこのようなことになるとは思っていなかっただろう)を身をもって知り、
悪夢の中にいるような心地だった。
小宰相の局をはじめとして女房三人も同様に姿を変えた(落飾した)。

日々の勤行で仏の名を唱えるときであっても、義久の面影ばかりが思い起こされて、
恋慕の情ばかりがいや増して涙がこぼれるだけだった。
朝には山に入って花を摘み、先立った父母の霊前に供え、来世の幸福を祈る。
夕には川に出て水を汲み、霊仏霊社に手向けて夫の現世での平穏を祈った。
「昔、文治のときに建礼門院が大原の奥の寂光院に隠棲したときのお嘆きも、
きっと今の私と同じものだったのでしょう」と、
見たことのない古い時代のことにまで思いを馳せ、涙が乾くときはなかった。

ある夕暮れには縁側の端近くに出て座り、「安芸の国とやらはこれより西の方かしら」と思うと、
その方向の空さえ懐かしく思われ、
傾く月が山の端にかかるのを見ても、「あなたのいる辺りに月が入っていくようだわ」と
うらやましく思って歌を詠み、手習いのように硯の蓋に書き付けた。

  「見るらんと見るに心は慰まで涙催す夜半の月哉」

折りしも秋風がそよそよと袂を揺らすと、
そばにいた女房が「書き物をするより、秋風の涼しさを感じましょう」と言うと、次はこう詠む。

  「君が住む国の名に立つ秋(安芸)風は物思う袖をかれずしもとへ」

そもそもこの御台所は、江州の京極修理太夫殿のご子息、五郎殿の姫君であった。
お姿が大変麗しいだけでなく、心栄えも世間の人より優れている。
歌の道にも熟達しているので、義久の寵愛が深いのもうなずけるという噂だった。

義久の行く先を見届けようと、安芸の国に行きたいと望む兵は次の者たちだ。
立原源太兵衛尉・山中鹿助・三刀屋蔵人・里田左京亮・秋上三郎左衛門・秋上伊織助・
高尾縫殿助・高尾右馬允・川添(副)美作守・川添右京亮・川添三郎左衛門・川添二郎左衛門・
黒正神兵衛尉・横道兵庫助・その弟横道源介・その弟横道権允・中井駿河守・中井平蔵兵衛尉・
中井助右衛門・馬木宗右衛門・馬木与一・吉田八郎左衛門尉・吉田三郎左衛門・目賀田采女允・
目賀田段衛門・疋田右衛門尉・疋田神九郎・米原助四郎・目黒助二郎・月坂助太郎・平野賀兵衛尉・
平賀源介・熊野兵庫助・熊野二郎・松田兵部少輔・古志因幡守・屋葺右兵衛尉・岸左馬進・
岸孫左衛門・津森宗兵衛尉・宇山弥太郎・三吉五郎左衛門・三吉神太郎・小林甚允・神西甚允・
熊谷新右衛門・大塚弥三郎・日野又五郎・田原右兵衛尉・馬田長左衛門・太野平兵衛尉・
福山二郎左衛門・福山弥次郎・福山内蔵丞・青砥助三郎・中井与次郎・片桐治部丞・渡辺内蔵助・
池田助兵衛尉・池田縫殿允・本田平十郎・梶山主水正・寺嶋兵部允・江見平内・江見九郎太郎・
妹尾十兵衛尉・加藤彦四郎・野津次郎四郎、以上四十九(六十八)人である。
しかしこの者たちは同行を許されなかった。
この者たちは泣く泣く杵築まで義久の跡をついてきたので、そこで饗膳を振舞い、あとはことごとく追い払った。

さて、義久に供奉した侍は宇山右近亮・立原備前守・本田豊前守・本田与次郎・
大西十兵衛尉・その嫡子大西新四郎・馬木彦右衛門・力石兵庫助・津守四郎次郎・
福瀬四郎右衛門・本田太郎左衛門・真野甚四郎・高尾惣五郎・大塚助五郎・正覚寺などである。
九郎倫久には田賀勘兵衛尉・長谷川小次郎・山崎宗右衛門・重蔵防、
八郎四郎秀久には松浦治部丞・松井助衛門が供奉した。
また、内の者には、宇山には矢田五郎左衛門・沼野助四郎、
立原には長谷川助四郎・下男の乙房、本田には広江彦五郎・中間の源右衛門などがついていった。

立原源太兵衛尉は今回調停の使者となったので出雲において二千貫の所領をあてがうべしと通達されたが、
今更敵方に召抱えられるのも口惜しく思い、また二君に仕えないことが忠臣の道だといって、
京都へと忍んで逃げていった。

尼子経久はさすが名将だったというべきか、
それに従っていた兵たちも皆武勇に優れ、忠義は鉄や石よりも固い。
だからこそわずかばかりの人数でも七(五)年も篭城し、何度もあった合戦でもひどく負けたことはなかった。
また、まだ若い大将の義久が老獪な元就と何年も渡り合ってきたことは、
敵ながら智勇を兼ね備えた名将で、さすがは経久の玄孫である。
城を明け渡すことになったものの、かえって人々は尼子家の将兵たちに感嘆した。


以上、テキトー訳。

今回は、一箇所どうしても適当な訳がわからなくてブン投げた。
それにつけても、我が身を思うにも妹背を想うにも歌の尽きない夫婦だね、尼子義久のとこは。
ちょっとうざ……もとい、麗しい話じゃありませんか。

軍記物らしいのは、立原さんのあたりか。
なんで毛利に召抱えられるのを断ったからといって逃げなくてはならんのだろう、
と一瞬だけ思ったけど、まあ普通に考えたら意に沿わない者は粛清されるわな。

尼子勢に関してはだいたいここでひと区切りなんだが、
ちょっとしばらく、惰性で続きを読んでみようと思う。
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