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2011-10-20

能……やはりブン投げ

あきらめました、どうあきらめた、私にゃできぬとあきらめた……(元ネタは都々逸)
今日はちょっと時間がなかったのと、現在キレやすい状態のため、
ブン投げ訳だけ置いてゆく。


観世宗摂能のこと(下)

四番に「烏頭」では殺生の業によって呵責にさいなまれる有様を表現している。
これを見ると、前の三番の能、たとえば千代の世を祝い、また乱れた天地を治めて平和をもたらし、
あるいは情欲に惑う話も、いつかはただ春の夜の夢となり、
ついには無常の殺鬼に責め立てられることになると知らしめられる。
見る人を恐ろしがらせて、成仏のために仏道に帰依しようとさせるための説教ではないかと思うほどだ。
神の誉れも仏の導きも同じである。
ありがたくも、また来世が恐ろしくも思えて、「南無仏」と唱え「妙法蓮華経」と呟き、
古の人の一句の話が頭をも透けさせてほしい(?)と考える。

こうして舞を奏でて、太夫たちは楽屋へと入り、幕を下ろした。
物の境もはっきりと見えない状態となり、これが天地未分、鴻毛未判のところなのだろう。
ここにおいては上に尊ぶべき仏もなく、下に見下ろすべき衆生もない。
仏も祖先も、この田地にいたっては見ることも触ることもできない。
極楽も地獄もなく、これを正法眼蔵ともいう。
本来無一物、あるいは一つの吹毛剣ともいい、林際下に一喝ともいい、
曹洞宗では正中偏ともいうそうだが、法華では中道、真言では阿字、浄宗では本性の阿弥陀と名付けて、
儒教の皇極道では対極ともいうらしい。
唯一の神道ではいったい何というのか、神のことをみだりに口にするには畏れもあり、
国常立の尊の無始無終のご神体にいたっては、考えも及ばず言葉でも言い表すことができない。

さて、太夫がこうして楽屋に入るのを見ると、花も根に帰り、月も暗路に入るものなので、
人間もまた本来自分の持っている仏性に立ち返って安住することを心がけ、
悪を断ち善を修めようと、心が不思議と燃え立った。

そこに「養老」の切笛・鼓・太鼓を打ち囃し立て、
「ありがたや、治むる御代のしるしとて、山河草本おだやかに、
五日の風や十日の天が下照る日の光曇りはあらじ、玉水の薬の泉はよも尽きじ、
あらありがたの奇瑞やな」と謡う。
するとさきほどの恋慕哀傷、有為転変の物語が思い起こされて、
憂いが湧き出ていた気持ちが一変して、「幾久しさも尽くせんや、尽くせんや」と謡いたてた。
またもとの脇能の喜びの心に戻り、高砂の松の葉が散り散りになるまで、正木の葛のように、
長い御代に限りはなかろうと思っているうちに、舞もおしまいになった。
「よき御代なれや、よき御代なれや、万歳の道に帰りなん」と謡った。
この元就公の長寿は万歳万歳万々歳に及ぶ。
その徳は尭舜が説いた仁義の道に立ち帰るであろうと誰もが思った。

その日はいつにも増して快晴であったが、「高砂」の途中から空が曇ってきて雪が降りだし、
白州に居並んだ見物客の膝上に積もった。
しかしあまりに感動していたため、皆自分の身が凍えているのにも気付かなかったということだ。


以上、テキトーすぎる。訳はできていない。

眼が痛い。
明日は夜中まで帰れないので更新しないと思う。
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