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2011-10-22

土佐の長曽我部VS毛利

今日は早めに。
出雲平定後、赤川たちの粛清も済んだころ、伊予で何かあったらしい。


伊与(予)の国所々合戦のこと

伊予の国(松山市道後)の住人河野弾正忠通直、子息の四郎通宣は、先年から毛利家の幕下に属していた。
同国の宇都宮豊綱は河野と何年にも渡って敵対していたが、
土佐の一条殿のご家来、長曽我部土佐守(元親)が宇都宮に協力して伊予の国に攻め込み、
河野を討伐しようとしている。

河野がこの状況を元就様に伝えると、とりあえず加勢を出そうということで、
元春から森脇大蔵(経夏)・井下新兵衛尉(朝兼)を大将として、足軽数百人をつけて差し渡された。
これに力を得た河野は城を打って出、手勢七千騎あまりで宇都宮の居城大津(洲)周辺を攻めた。
こうなれば土佐の長曽我部もまた宇都宮へ久竹内蔵丞に数千騎を添えて加勢する。
宇都宮豊綱、清の党に久枝又左衛門清義を先陣として出陣し、
伽の森というところで両陣は激しくぶつかり合った。
森脇・井下も、比類ない功績を挙げた。
その日は互いに勝負がつかず、敵も味方も退却した。
四国で有名な伽の森合戦とはこのことをいう。

その後、元就様は河野に加勢し宇都宮を討伐しようということで、
自身は吉田に残りつつも、分国の兵を集めて四国に渡海させた。
輝元様は吉田を出て佐藤(東)の山県筑後守の館まで出向き、
伊予へは吉川駿河守元春・嫡子治部少輔元長・小早川左衛門佐隆景が、
備中・備後・安芸・出雲・伯耆・石見・周防・長門八州の軍兵三万騎あまりを率いていく。

永禄十一年二月(四月)中旬に、安芸の国草津から兵船の艫綱を解いて、伊予の国へ渡る。
順風が思い通りに吹いて、三日のうちに伊予の国に到着した。
河野父子もすぐに合流して案内を引き受け、宇都宮の端城を一つひとつ攻略する。
同二十四日、上須戒の城へ河野が先陣となって攻め込み、あっという間に攻め破って五百人以上を討ち取り、
下須戒へは吉川・小早川の兵たちが一番に乗り込んで三百以上の首級を挙げた。
敵の多くは山伝いに逃げ散った。
それから枷の森を取り囲み、三万騎が鬨の声を上げて攻め上る。
城方もここを先途と防戦したが、多勢に無勢で、ひとたまりもなく落城した。

このとき、吉田衆に坂新五左衛門・冨落小次郎、小早川衆に井上又左衛門が首を取り、
吉川勢の香川兵部大輔が城に一番乗りを果たした。
益田藤包の若党吉岡兵左衛門が「兵部殿、私の分捕りにご協力いただけませんか」と頼むので、
香川は「心得た」と了承し、敵を一人切り伏せて「吉岡、首を取れ」と討たせてやった。
吉岡は手を合わせて喜んで、すぐにその首を討ち取った。
それから、宇都宮豊綱の家城、大津を取り囲んだ。

長曽我部土佐守はこれを聞くと、「今宇都宮を見捨てれば歴代の武門の名に傷がつく」と、
土佐・讃岐の軍兵二万騎あまりを率いて、
大津の城から百町(1.1キロ)ほど離れた柳原というところに出てきた。
そこに一晩で二百間(約360メートル)四方の陣城を築き、土手を造り堀をめぐらせ、
構えを整えて援軍に駆けつけた。
この押さえとして、河野父子・平岡遠江守・能嶋掃部助・久(来)留嶋出雲守らが、
土佐勢を防ごうと控えていた。
安芸勢の宍戸安芸守・福原左近允・国司右京亮・児玉三郎左衛門・古志清左衛門尉、
そのほか防長の兵五千騎ほどが河野に差し添えられたので、
河野の手勢と合わせて一万二千騎ばかりが陣を堅く構えて土佐勢の行く手を阻んだ。

さて大津の城は、吉川・小早川の両将が、備後・安芸・出雲・伯耆・石見五ヶ国の兵で取り囲んでいる。
豊綱も随分な強将なので、度々打ち出ては敵に迫ったけれども、
とにかく寄せ手の数が多すぎていっこうに歯が立たない。
ついに降伏してきたので、吉川・小早川が城を受け取り(永禄十一年五月上旬か)、河野に引き渡した。
豊綱は隆景預かりとなって備後の国三原に置かれ、警護の武士を厳重につけられたが、
ほどなく風邪をこじらせてついには亡くなってしまった。

大津の城が降参すると、長曽我部の陣へ押しかけて討ち果たそうかと会議しているころ、
土佐守は「大津の宇都宮は降伏してしまった。こうなっては、ここにいる意味もない」と
柳原を引き払ってしまった。
河野たちはこの跡を追おうとしたけれども、土佐守はさしもの勇将で、
久竹・桑名・豊永ら三千ばかりをしんがりにして、備えを乱さず静かに引いていった。
「四国で戦争が盛んになっている昨今にあって強将と名高い土佐守、その評判に違わぬ退き口だなあ」と、
人々は感心したそうだ。

こうなると、宇和にいた西園寺公広も、元春・隆景に使者を送って、
毛利の傘下に入ると申し入れてきた。
これで伊予一国は無事に平定され、すべて河野の差配に任された。
元春・隆景両将は、やがて(五月下旬)帰城した。

その後、河野四郎通直と、宍戸安芸守隆家の息女との結婚の契約が成った(伊予陣以前とも)。
また、元清へは久(来)留嶋出雲守の妹が遣わされ、これもまた婚礼が整ったので、
河野をはじめとした伊予一国の侍たちはすべて元就様の傘下におさまったことになる。


以上、テキトー訳。

あんまり派手な合戦にはならなかったようで。
まあ、アレだな。さすがに三万は誇張としても(秀吉の四国討伐でも二万程度だったはず)、
万単位で攻め込まれたらひとたまりもないよね。
ぽろぽろと城が落ちてもしゃーない。
大軍勢で押し寄せるってのは、城兵の意気を挫いて早期に降伏させられるって利点があるよね。
寡兵VS大軍の決戦てのは非常に血沸き肉躍るが、こういう派手さのない戦ってのもナカナカ。

香川兵部さん、ステキ。
他家の若党に手柄立てさせてやるなんて太っ腹じゃないの。

さて長曽我部さんの登場。
BSR動画でなんか海賊のふりしたニーチャンを見るまで名前すら知らなかったけど。
土佐の武将で若いころは読書に耽り「姫若子」と呼ばれていたとか。
遅い初陣で意外に才能を発揮してから「鬼若子」と呼ばれ、
信長には「無鳥島の蝙蝠」と揶揄され、秀吉に謁見する際には大坂に鯨一頭を持ち込み、
それで秀吉の命で出陣した九州征伐で多くの家臣と嫡子を失い、狂ったという人。
まあ、なんだ。今のところ特に興味は惹かれない。

しかし一夜でけっこうデカイ陣を造営しちゃったり、引き際がきれいだったり、いい大将だよね。
土佐は一預具足が有名だなぁ。農民に具足一寮貸し与えて、戦のときだけ動員するっていう。
足軽が農民なのはどこも一緒なんだろうけど、こういう人たちの活躍も読みたいなあ。
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