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2011-10-24

毛利の先祖について

なんか目次を作ってみると、最初の方を全然読んでないことに気づいたので、最初の方を。
一番最初とか序文とかは、けっこう美辞麗句で飾り立ててあって訳すのには手ごわい。
そこで、なんとなく毛利の先祖の話。


大江元就朝臣先祖のこと(上)

毛利陸奥守贈三位大江元就朝臣と言う人がいる。
勇気・智謀が人より優れているだけでなく、仁徳愛和も世に類ないほど優れていて、
最終的には、永禄年中に山陽・山陰十三州を統べる武将となった。
その武威は世の中にとどろき渡り、武名は後世でも輝いている。

その先祖をたどっとみると、第五十一代天皇、平城天皇の第二皇子、阿保親王の第二十六代の後胤となる。
その親王の御子には本主・音人・千古・維時・重光・匡衡・挙周・成衡・匡房・
維順・維光・広元にいたるまで、和漢両朝の才能に富んでいた。
そのなかでも広元の才能は抜群だった。
治承という時代に源頼朝公が院宣を賜り、東の八ヶ国を打ち従えて上洛をしようとしたときに、
「頭の切れる臣下を関東に遣わしてください」と後白河法皇に上奏したところ、
この因幡守広元と斉院次官親能が鎌倉へ差し下された。
そして親能は範頼・義経に付き従って四国・九州の戦場に赴いた。
また、広元は頼朝卿のそばに侍って国家の政道を司った。

その後、頼朝卿は平家を追討して征夷大将軍に任官され、
広元は後見として世を治め、民を撫育することになった。
そして頼朝卿が没する(正治元年正月十三日)と、頼家・実朝に仕え、
その後の和田合戦・承久の乱のときも、広元が謀を帷幄のなかにめぐらし、武家一統の世を作り上げた。
将軍三代に仕え、頼経の後見もした。
老いてからは仏門に入り、覚阿と称して、ついに七十八歳にして、
元仁二年(嘉禄元年)乙酉六月十日に死去した。

長男の民部親広入道蓮阿は、承久の乱のときに流罪となった。
京都の守護正四位時広は、鎌倉の評定衆に列したが、西明寺(北条)時頼のとき、
謀反を企てた三浦若狭前司の秦氏と時広は深く朋友の契りを交わしていたために、
秦氏と共に籠もって討ち死にした(宝治合戦)。
これによって子息(季光の子)宗光(経光)は鎌倉を追い出され、越後の国でわずか三千貫を給与された。
その弟は河内の国で千貫を手当された。

宗光の嫡男、季光・経光・時親・真親・親茂・師親までは越後に在国していた。
その後、元弘の乱のとき、真親入道了禅・子息親茂・嫡孫師親・
その弟の坂宮内少輔匡時・有富越後守直衡は、(新田)越後守義顕の手勢に属し、忠戦を果たす。
その後の義貞と尊氏の合戦のとき、義貞・義顕は北国で討ち死にしてしまったので、
越後の国は高越後守師泰が尊氏から賜った。
貞親・親茂は、匡時・直衡らを引き連れて宮廷方に属した。
このとき師親一人が将軍方に従い、観応元年に石見の国佐波善四郎直冬の傘下となった。

越後守退治として馳せ下るとき、師親は師泰の軍に属し、
毛利少輔太郎と名乗って江の川を一番に渡って青杉・丸尾・鼓の崎の三城を攻め落とした。
この勲功により、安芸の国吉田の三千貫の土地を賜って、それから芸陽に住むようになった。

その後、師直・師泰は趙高・禄山ほどにも驕りたかぶってやがて誅殺されてしまったので、
次は山名伊豆守時氏の傘下に入り、師親の名を改めて元春と名乗った。
五番目の弟が一人、元春に味方した。
その後、貞親・親茂が死去した後、元春は二人の弟と和解して、弟たちも越後の国から吉田へとやってきた。
その後、将軍義詮が逝去すると、御子の鹿園院義満卿のときに、嘉慶・康応のころ、
後醍醐天皇の末の皇子が一人、肥後の菊池を呼び寄せ、将軍の宮と称して筑紫の二島を打ち従えた。
菊池を成敗するために義満卿が九州に向けて出陣すると、山陽道・山陰道の兵たちは思い思いに付き従う。

このとき、菊池は長門の国府に陣を張っていたが、
搦め手の合戦で負けて敵が九州に乱入してきたと知ると引き返し、九州の地で何度も合戦に及んだ。
しかし天下を相手にしては多勢に無勢でかなうわけもなく、
最終的には和睦して肥後一国を領すのみとなり、残りの八国は将軍の手に渡った。

このとき、元春は将軍の方に属しており、
元春が九州に下った隙をうかがって、弟の匡時・直衡は宮方について吉田三千貫を横領した。
このせいで元春は九州在陣中に本国からの兵站の運搬が滞って難儀した。
しかしどうにか、京都に保有していた二箇所の屋敷を赤松に売却し、
また河内の千貫の所領を頼みとして、九州に在陣し続けた。
そして帰陣すると、弟二人の命だけは奪わなかったものの、所領などは没収した。
坂・有富の先祖はこれである。


以上、テキトー訳。続く。

うーん、天皇の血筋にまでさかのぼるか。ハンパねぇな。
しかし親王の名前がちょっとアレだね、阿保親王……
そんでもって大江広元。なんか教科書で目にしたことがある気がする。

毛利は苗字で、姓が大江だ、ということらしいが、混乱するなー。
まあ、国民皆姓ですべての人が一つのファミリーネームを持っている現代人の感覚ではわからん。
しかしこういう制度になったのも明治時代からで、姓と苗字が分かれていた時代の方が長いんだよね。
私の理解では、姓=天皇から賜ったもの、苗字=勝手に名乗っていいもの、という感じ。
一人が天皇から姓を賜り、その子孫が受け継ぐことで、繁殖に伴い人数も増えていく。
いろいろな地域に広がっていく。
そうなると、「大江」とかいっても、どこの「大江」か判別がつかない。
そこで、「毛利(森の庄)の大江」を名乗り、やがて姓を用いるのは公式書類のみで、
他は苗字で通すようになったということらしい。
余談だけど「毛利」も最初は「もうり」でなく「もり」と読んでたらしいね。
簡単な見分け方は、「藤原(ふじわらの)」「源(みなもとの)」「平(たいらの)」というように、
「~の」という読み方をするのが姓、しないのが苗字だとか。

さらに余談なんだが、うちの先祖、仙台伊達藩の家臣の家臣だったらしい。
父方とはあまり交流がないし、興味もなかったので最近まで知らなかったが。
何かの拍子で父親に「うちの先祖って農民でしょ?」と聞いたら、
「いや~、それが武士だったらしいよ、下級だけど」と返ってきたのでビビッたw
それでかな、うちの家紋、伊達政宗の使ってた「竹に雀」の、竹の部分が似てる。
中央部はまったく違う意匠が入ってるわけだが、ゴチャゴチャしてて実はあんまり好きじゃない。
正直、伊達政宗もそれほど好きじゃないので、縁があるといわれても正直微妙だよ!
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