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2011-10-26

元就様マジ天才

続いて元就マンセーの章。
来たよ、苦手な和歌、というよりさらによくわからない連歌。
もう掛詞とかがオヤジレベルのダジャレにか思えなくなってきたよ!


元就朝臣元服のことにつき本卦のこと

丹比松寿丸殿は当年十五歳になったが、まだ元服をしていなかった。
それで母君から佐藤の何某とかいう者をお使いとして、京都に滞在していた興元様へ相談があった。
「松寿丸はまだ元服をしておりません。今年こそ元服させるべきでしょう。
そこで、仮名・実名を何と名乗らせたらよろしいでしょうか。
当主のご決定を仰いできてください」と言われた佐藤は、急いで吉田を出発して京都に上り、
取次の井上源三郎に委細を伝えた。

興元様はこれを聞いて、「私は少輔太郎と名乗ったので、松寿丸は少輔次郎と名乗るといい。
また、実名は『元』の字は当家の字なので言わずもがなだが、
下の字は東福寺の彭叔和尚(守仙)に相談しなさい」と言った。
佐藤はすぐに恵日山東福寺へ向かい、用向きを話して取次を求めると、吉侍者が応対してくれ、
この吉侍者を通して名乗りの下字のことと本卦(運命の吉凶を占う)のことを申し込む。
彭叔和尚はこれを聞いて、「佐藤さん、今日は宿所に帰り、後日またいらっしゃい」と言うので、
佐藤は言われたとおりにその日は帰って、翌日またその寺に赴いた。
今度は彭叔が出てきて対面がかなった。

「名乗りの下字のことは承りました。『就』の字がよろしいと思います。
また、本卦は師の卦、上六(じょうりく)に当たります。
上六とは、大君は戦争に勝って功労者を諸候に任じ、国を開いて家を興させる、
つまらぬ者はは登用してはならぬ、という卦です。
この心は、必ず名大将になられ、数ヶ国を切り従えることになるでしょう。
庶子として生まれたといっても、惣領として家を継ぐことになります。
これは本卦といい当たり所といい、大変なことでございます。
この愚僧の未来の予言はよく当たりますぞ」と言う。

佐藤がこれを聞いて帰ると、興元様が「どうであった」と問う。
「そうですなあ、師の卦といって、当たり所がよかったので、必ずや有名な武将になられ、
数ヶ国を切り従えるでしょう、ということでした。
どこへなりとも御大将として差し向けられれば、当家の戦は勝ちが続くだろうと、
和尚はおっしゃっておりました」
佐藤はそれだけ答えた。
庶子に生まれながら嫡家を継ぐだろうということをあえて言わなかったので、
興元様はたいそう喜んで、佐藤に盃と禄を与えた。

その後、佐藤は興元様にお別れを告げて吉田に戻り、委細を伝える。
母君は大喜びで、すぐに松寿丸殿の元服があり、丹比少輔次郎元就と名乗るようになった。
「私は志学の歳になるまで何もない田舎に閉じこもっている。
人知れず朽ちていく埋木のようで、悔しいものだ。
どうにかして少しでも急いで京都に上り、兄興元公の先陣を務めたいものだ」と、常々言っていた。
ようやく元服がなってこれで上洛できると思っていたところ、
母君のお許しが出ないので日々ばかりが過ぎていった。
少しの間も戦争のことが頭を離れず、他のことには興味がない様子だった。

それどころか張子房(張良)が橋の上で得たという一巻の書、呉子・孫子が伝えた道をはじめとして、
唐の兵法書を捜し求めてはこれを学び、
そのほか我が国の源頼義・義家・義経・義貞・正成といった歴代の名将の功績を追って、
武道の学問を一点の曇りなく学び極めた。

「高祖は『我は布の衣を着る平民の身で、三尺の剣を引っさげて天下を取った』と言って、
台風の詩(戦乱を巻き起こして天の曇りを払った、喜びの詩)を吟じた。
現代の武将にできないわけがあろうか。
武勇があって教養がないのは片翼を欠いた鳥のようだ。
文武を併せ持てば角を持つ虎のごとしだ。
学問は道を貫くためのもので、学ばなければ戦争の賢聖の道を見極められない。
孔子ですら『私は生まれながらにしてすべてを知っているわけではない』と言っている。
凡人であればなおさらだ。
国を治め民を撫育し、政道を尭舜(中国神話上の王たち)のころの善政に戻すには学問に勝るものはない」
といって、常々、魯論(論語)・中庸、他にも世にあるさまざまな聖賢の書を学んで、
ときどきはこれを実践した。

また、「目に見えない鬼神をも従え、猛々しい武士の心をも慰めるのに和歌に勝るものはない。
和歌の道にまったく疎いのは血の通わぬ木石と同じで、ことにこの国は神の国だ。
『大和歌』と書いて『ことば』と読むのだ。
神はお言葉を人の心の種として、万の言葉とした。
『和』はすなわちおだやかな威光のことである。
愛しあい仲良く暮らすのに、和歌ほど役に立つものはない。
日本を『大和の国』と言うのは、神の国だということを強調しているためだ。
神の国に生を受けながら和歌を詠まないのはすべての神の恵みに背いていると言っても過言ではない。
神慮に背いて、どうしてこの神国で武家として冥加を得られようか」
といって、謀略計策を練り、暇があれば敷島(和歌)の道を逍遥していた。

そのころ、防州山口に内藤内蔵助(護通)の流派の連歌の得意な人が多かったが、
こうした人がたまに芸陽に訪れるとそれを呼び寄せて、連歌の興行などを行った。
天文のころ聖護院准后(道増)が防州の山口、雲州の冨田、芸州の吉田へ下向してくると、
歌の道の師となってもらってその奥義を極め、その妙を得たので、
そのころの武家には並ぶ者のない歌の達人となっていた。

あるとき志道太郎三郎広好(良)が
「内藤内蔵助は歌道においてはその名が雲上にまでとどろいている者でございます。
内藤は常々、現在の宗匠宗祇といえども自分よりすぐれているわけがないと思い、
上洛して宗祇に接触を果たしました。
宗祇は、内藤など山口の田舎に住んでいる者が自分より優れているわけなどないと、
居丈高に思って自己防衛に徹しています。
実に井戸の底のヒキガエルとはこういう者を言うのでしょうが、やがて連歌興行がありました。
表が過ぎて裏にかかると、内蔵助が華の句を詠もうと心に決めて前句を狙っていたのを小憎らしいと思ったのか、
華前になると宗祇は『ぬき足するも心ありけり』という句を詠みました。
これでは恋の句です。
内藤の前句を『ぬかした』のは心ある華の句をと心にかけているようだから
(熟慮しすぎて遅いから?)、という意味を含んでいます。
内藤は筆を執って、吟じ上がると同時に『ぬる鳥も驚かさしの花に来て
(花の句なのに、寝る鳥=句を練る私も飛び起きるほど驚かせてくれますね?)』と付けたので、
さしもの宗祇も感嘆したとか。
そのあとまた『角ならば契らし者を中々に』という句に、内藤は『まだ葉隠れの園の青瓜』と付けました。
宗祇はこれにも感じ入ったそうです。
こうした名人の流派なので、なかには取るに足らない者もございましょうが、
そのときどきの宗匠によって言葉遣いも少しはかわるものです。
最近は宗牧・昌休の弟子などが山口、厳島に下ってきていますので、
彼らを呼び寄せて当世の流行でもお尋ねになったらいかがでしょう」と言ってきた。

元就様は「おまえの言うことは確かにもっともだが、乱れた世は武をもって治めるというではないか。
今は乱世だ。軍法の学問を重点的に学ぶべきだ。儒学や歌学はそれほど深く極めなくともよい。
その道を少し知っているだけでいいのだ」と言って、武学だけは怠らなかった。
自然と軍法は正しいものになり、号令も明確で、戦えば必ず敵を挫き、
攻めればたちまち城を落とさぬことはなかった。


以上、テキトー訳。

えーっと、元就の母君って、幼いころに亡くなってるんではなかったっけ?
元就4歳とかそのへんで。
父親の弘元も10歳くらいのときに死んでるよね。
いきなりそこをスルーですか。
作者のセンスがわからなくなってきた。

作者のセンスと言うか、これまで著者の香川さんをさんざんdisってきた気がするが、
「陰徳記」の下敷きとなってる書物があるんだよね。
「安西軍策」っていって。それも「二宮俊実覚書」とかをもとにしてるらしいし。
道理で作中に「二宮杢助(俊実)」ってのがよく出てくるはずだわ、よく考えたら。
二宮さんの覚書も、80歳くらいになってから広家にお願いされて書いたものだから
記憶が不確かでもしょうがないよね。
この二宮さんは吉川家家臣だが、元春よりも年上で、あの厳島合戦でも戦功を挙げ、
広家が秀吉のところに人質に出されたときは広家について大坂に行ってるはず。
広家は父とも思ってすごく頼りにしてたんだろうなーと思う。
うん、脱線しすぎた。

占いがヤバすぎる。この時代なら兄に殺されても仕方ないレベル。
まあこの逸話自体がでっち上げくさいが、それはそれとしよう。
すべてを興元に話さなかった佐藤何某はエライけれども、
重要な役回りなんだから何某じゃなくて名前がわからなくても無理にでもつけてあげてください。
あまりにもあんまりです (;ω;)
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