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2011-10-27

元就様マジヒーロー

出先からアリバイ作りの仮置き。
あとで整える~

と残して投下したはいいが、整えるのが約一日後って……生活が乱れてんなぁ。
元就みたいに日の出に向かって念仏唱えたり、
隆元みたいに母親の供養のために毎晩三百回(だっけ?)念仏唱えるくらいの心の余裕が欲しいもんだ。


唐人来朝して元就朝臣の人相を見ること

永正十年(1513年)癸酉六月十八日、唐船が一艘日本に来た。
正使の了菴(桂悟)仏月(日)禅師に、大明国燕都の人相見で朱良範先生という者が
一緒に連れて行ってくれと頼み、この人も日本に来た。
また博多の正(聖)福寺や承天寺の僧たちが、あるいは入門のため、または護衛のために集まった。
薩摩の福昌寺の僧、関東の三ヶ寺、そのほかにもさまざまな叢林が修行のために馳せ集ってきて、
皆赤間が関についた。

南海道は能島・来島といった海賊たちが津々浦々に充満して、
その唐船の宝物を奪おうとてぐすねを引いていると、先んじて報告が寄せられていたので、
赤間が関から四、五百匹ほどの馬に高荷を積んで、山口へと向かった。
大内義興にしかるべき道案内を頼み、陶入道道麒(興房)が安芸の国まで送っていった。
その者たちは安芸の国の厳島神社に参詣し、それから佐藤(東)に来て、佐藤から吉田を越えて、
そこから石見路を通り、出雲から丹波路を経て都に入ろうと計画していた。

さて、吉田につくと、唐の僧、日本の僧たちは、興禅寺並びに大通院、曹洞寺にて包みを解き、草履を脱いで、
寺の構えなどをつぶさに観覧し、座具を出してきて払子を振るう。
礼の法要が終わると、点心を作って食べ、旅の疲れを癒した。
商人と人相見は吉田の市中に宿を借り、馬を休め、高荷を下ろして、旅路の愚痴をこぼしていた。
元就様がこの状況を知ると、志道太郎三郎広好・桂左衛門佐元澄、
芸陽は新庄にある西禅寺や石見は佐波の花の谷の了和尚などを引き連れて、
丹比の城から吉田に向かい、祇園坊で唐僧や人相見などに対面した。

人相見は元就様を何度もいろいろな角度から見て、ようやく後ろに下がり、
三度拝んでから硯に向かって何かを書き付け、元就様に進呈する。
元就様が二人の和尚にそれを渡して「読め」というので、僧たちはそれを受け取って読んだ。
元就様は態度を和らげて「私に訳して聞かせてくれ」と言う。

了和尚が「この書付には、唐土の明王と人相似ていると書かれています。
まず、蜂月(目)狼声というのは、秦の始皇帝のことです。
次に、而龍顔とあるのは漢の高祖、龍鳳之姿とあるのは唐の太宗文武皇帝です。
これらの明の王と似ていらっしゃいます。
ホクロも高祖に似ているとあります。高祖は左の股に七十二のホクロがあったとのこと。
お姿が美しいのも昔の偉人になぞらえててあります。
これだけでなく、病もなく長生きすることでしょう。
子は十人生まれ、子孫は繁栄し、最終的には帝王を支える師となることでしょう、
と書いてあります」と言うと、元就様は大いに喜んで、その人相見に褒美を与えた。

これは了和尚が元就様に講釈したものを伝え聞いて書き記している。
その唐人が書いたものは、今でも毛利家に秘蔵してあるので、簡単に見ることができないそうだ。
さてこの唐人の見立ては毛筋ほども外れていない。
眼光は日月両輪のように鋭く、再び目を合わせるのも恐ろしい。
声も人より大きく、実に狼の声のようだ。
言葉がハキハキしているうえに声も大きければ、兵たちに命じる声は、一軍・二軍にも響き渡るだろう。
輪郭は引き締まり、鼻は高く、二十歳ごろから生え始めたひげは左右に豊かに生い茂り、
怒ったときには一本ずつ逆立った。
これも、ひげが美しかったと言う高祖に似ているのではないだろうか。

鬢の上には大きな痣があり、心は穏やかで人を愛することにかけては古今無双だ。
情け深い人は心が広く豊かでよく人を愛するというが、まさにこういうことだろう。
また、姿にも威厳が備わっているばかりか非常に気高いので、龍鳳の姿というのも道理であると感じる。
姿に威厳があってまた美しい様を梅の花に似ていると書いたのは、張良になぞらえたのか、
張良は婦人とも見まごうばかりの美しさだったという。
昔の人の梅の詩に、
「真に何遜(かそん)が知己となるは須らく、始めて張良が婦人に似ることを信ず」とある。

また十人の子に恵まれるというのは、前述したように大膳太夫隆元様から秀包にいたるまで、
確かに十人の子に恵まれた。
子孫繁栄については、嫡孫の輝元様は従二位中納言となって清華の家(公家の家格)となった。
武家が清華となる端緒となった。

また、帝王の師となるということについては、
元就様が上洛して従四位に叙せられたときに、大江家(文章博士)の末裔だからということで、
とある子細があって、禁裏で儒教の講義をすることになったが、断ったので実現はしなかった。
従来、和漢の学問に広く通じて頭も切れる人なので、鞍馬にいる間もあれこれと文章を書き、
槊を横たえて詩を賦し(武器を持ちながら詩を作ることも忘れないこと)ていたけれども、
遠くの田舎に住む武官の身であり、雲上(宮廷)で家業でもない学問の講義などすべきではないと考えた。
そこで名家出身の博識の人に委任して、その役を務めてもらった。
これが帝王の師となるという予言に合致するかもしれない。

また、目の前に控えていた人々(人相見)は福原広俊を見て、
「大果報の相があり、子孫繁栄することでしょう」と言う。
志道広好を見て、「子孫繁栄は望めないでしょう」と言う。
また井上河内守・渡辺次郎左衛門・志道又三郎には、「剣刃の難があります」と言う。
口羽通良・桂元澄・坂たちを見て、「庶子に生まれながら嫡家より優れている相です」と言う。
結果を見ると、確かにそうなったのだから不思議なものだ。

人相見も、「このようなめでたい人にお目にかかるとはありがたい」と、趣深い句を作った。
西禅寺・花の谷なども、もとより子胆・魯直にも劣らない才能があり、
先生が韻をついで錦章繍句を延べたのを、
「先生がこの人の人相を見てひらめいたので、雅やかな清風が巻き起こった」と言って感じ入った。

その後お別れをし、彼らが上洛するというので、騎馬武者五人と弓五十張を差し添えて赤間まで送らせた。
そこで尼子伊予守が護衛を引き継ぎ、赤松の領内まで送らせて、
あとは赤松が備前から京都へ無事に送り届けたとのことだ。


以上、テキトー訳。

元就マンセーがどれだけ続くねん。
よくもまあ、これだけ歯の浮くような褒めっぷりができるもんだわw

しかし、当時の武将ってのは実際、ものすごい博識でないと務まらないよなぁ。
学問ができるって意味じゃなくて。
読み書きと兵法はもちろんのこと、領地経営と兵站を考慮すると数学は必須、
人心掌握にも長けて、情報収集・解析やときには情報操作もやって、
城や陣の造営のため、あるいは賦役にこたえるために土木知識も必要で、
武将同士の集まりでは歌も作れなきゃならないし、
格式が高いパーティーに出るなら有職故実にも通じてなきゃならんし、
いったいどれだけのスペックが要求されるんだか……
まあ、そのためにいろいろな家臣を取り揃えてるんだろうけどね。
多芸多才の筆頭みたいなのが豊臣秀吉なんだろうなぁ、と思ってみたり。
有能な家臣にも恵まれてるしね。

さて、そろそろ広家に飢えているので下巻に手を出すかもしれない。
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