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2011-11-18

杉原家の兄弟喧嘩

言ったことをやらないって人間のくずだと思うけど、
前に「次は元春の九州出張読む」とか書いておきながら違う章を読んでいる。
今夜はカイトさん(?)の「しねばいいのに」を聞きながら眠ろうと思います。

さて今回は、毛利家傘下の杉原家のゴタゴタのお話だよ!
時期は秀吉と和睦が成ってからしばらく後のあたりだよ!


杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(1)

天正十二年、杉原又次郎景盛は自分の兄である弥八郎元盛に嘘を言って討ち果たし、
その跡を我が物顔に譲り受けようとしたが、ついにその陰謀が明るみに出て、
やがて自身も滅び果てた。

それにはこんないきさつがあった。
去る天正九年十二月二十五日に、父の播磨守盛重が、伯耆の大山において傷寒を患って死んでしまった。
よって元盛が家を相続したのだが、
山のようにあった父の遺産をどうにかして半分自分に分けてほしいと景盛が思っていたところ、
少々欲深い元盛がすべて自分の物にしてしまって、景盛に分与したのはほんのわずかだった。
これで景盛は元盛を深く恨むようになり、いつか兄を亡き者にして杉原家を奪い取ろうと狙っていた。

そして去る天正十年の備中の国高松表での陣のとき、
杉原兄弟は伯耆の南条兄弟やそのほか因幡方面に対する押さえとして、八橋・尾高の両城を守っていた。
景盛と菖蒲左馬允が結託して、元盛に向かってこう言った。
「今は日本国の半分以上が信長の手の内です。
越後の上杉と安芸の毛利だけが、この信長と戦争しても国を破られることなく堪えていますが、
最終的にはやられてしまうでしょう。
なぜなら、元春・隆景が高松表で秀吉と相対していますが、
敵の数はこちらよりはるかに多いと聞いています。
このうえ信長が出てくるのなら、秀吉程度の大名を何十人も従えてくることでしょう。
そうすると敵は二十万騎にも及びましょうから、
いかに大勇智将の元春・隆景であっても、ひとたまりもなく敗北するでしょう。
そうなれば、毛利家は滅ぶでしょう。
杉原は代々仕えてきた家臣でもなく、ただ一時つき従っているだけの国人なのですから、
秀吉に寝返ったとしても、そうそう嘲弄されることもありますまい。
さあさあ、毛利家への協力を打ち切って秀吉に与し、杉原の家名を永らえましょう」

元盛は答えた。
「これは思いの外のことを聞いたものよ。
亡父の播磨守殿は杉原家の四番目の家老だったが、宮内少輔忠興が逝去した後、
元就公が元春・隆景に向かって、
『杉原家が断絶の危機にある。誰かに相続させよう』とおっしゃって、
隆景がこうお答えになった。
『忠興には実子がないからといって、別の他の家から養子を迎えるのはよくありません。
あの家の一の家老、杉原左衛門進に家を相続させましょう』
これに元春が、『いや、杉原播磨守がいいでしょう』とおっしゃったのだ。

この子細は、おまえたちも存じているだろうから、重ねて言う必要もあるまい。
こうして盛重が当家を相続したのだ。
亡き父が生きていたころは、何事につけても、軍神八幡に御知見あれと宣誓したことは翻したとしても、
元春のお怒りを蒙るようなことは一切なされなかった。
この程度のことはおまえたちも知っていよう。
私は勇と智こそ亡父に劣るといっても、どうして父の忠義を忘れることがあろうか。
この危急のときに臨んで志を変じれば、武名の傷になるばかりか、
亡父の尊霊もさぞかし草葉の陰で、不甲斐ない者たちだとお嘆きになるに違いない。

父の道を継ぐことこそ孝である。
こんなときであっても志を変えないのが立派な男子だ。
孝を捨て、義を捨て、敵に与したところで、家運が尽きれば結局のところ難を逃れることはできないのだ。
正直は一旦の依怙にあらざれどもついに日月の憐れみを被ると言う。
義を大切にし、孝を心がければ、八幡台菩薩の恩恵にも預かることができるだろう。
今年の春、武田滅亡のときの小山田弥三郎(信茂)・木曽義正(昌)、
ほかにも穴山玄蕃(梅雪)入道たちの振る舞いは、世の人々にもこぞって糾弾されている。
だからこそことわざにも、『身は一代、名は末代』というのだ。
父が人より優れた者であれば、その子は十人並みであっても人より劣っているように噂されてしまう。
父が人より劣っていれば、その子がまた十人並みであれば、父より優れていると称美される。
中国はさて置き、日本国中を探しても、勇と智で我等の父の盛重に勝る者はそうはいまい。
国の一つも持っている大将の家に生まれていれば、十国や二十国の太守ともなれる大器の方だった。
私はその父の子として生まれながら、父の業を継ぐことはできずとも、
どうして人道に外れた行いをすることができよう。

おまえたちには物の怪でも憑いているのか。
まさかこんな浅ましいことをその口から聞こうとは。
この元盛、天地がひっくり返っても、元春の厚恩だけは忘れまい。
この身が粉々に裂かれたとしても、父の守った義を翻したりはしない。
おまえたち二人でこの元盛の生き首を引き抜いて、秀吉に捧げるがよい。
そうすれば毛利家は滅びても杉原家は繁栄するのだろう。
私もまた亡き父に対して身を捨て、毛利家のために命を失うのであれば、露ほども恨みには思わぬ」
元盛ははらはらと涙を流して言うので、景盛と菖蒲左馬允は興醒めして退出した。

これは単に秀吉に味方しようということではなかった。
元盛が京方に味方すれば、京都の軍勢は大軍だからきっと勝つだろうと思い、
そうなれば一味同心した杉原家は本領を安堵されるだろう。
もしまた中国勢が打ち勝てば、
「兄の元盛が京方に味方しようとしたので是非もなく討ち果たしました」と忠節ぶって注進し、
景盛が杉原家を相続して菖蒲にも過分の所領を与えようという謀略だった。

そして京都と中国が無事に和睦を結ぶと、
景盛は自分の陰謀が明らかにされないうちに元盛を討とうと、菖蒲と相談して決めた。
元盛に使者を送り、「二の丸においでください。相談したいことがあります」と伝えると、
元盛は何の疑いもなく、若党を五、六人連れて二の丸にやってくる。
景盛は数奇屋に招き入れ、密談するような振りをして、いきなり刀を抜いて斬りかかった。
元盛もなかなかの剣技の達者で、腰の脇差を抜くと散々に切り払う。
景盛・左馬允がすぐに切り立てられて怯むと大庭に躍り出た。
景盛の郎党数十人が追いかけるも、元盛はことごとく切り払うので、
皆あちこちの木の陰、岩の陰に身を潜めた。

元盛はその隙に太刀を担いで本丸に帰ろうとするが、景盛が矢倉に駆け上がって、
「元春・元長よりの上意でこのようなことをしているのだ!
元盛に一味する者は、一人残らず、子々孫々まで誅罰に処されるだろう!」と、声高に叫ぶ。
「この身に罪もないのに、元春がなぜ私を討とうなどと言うものか」と、
元盛は門を出ようとするが、初太刀で眉間をしたたかに斬られたからか、目もくらみ息も乱れ、
二の丸の門の敷居に蹴つまづいて、うつ伏せにガバッと倒れてしまった。
そこに門番の者たちが大勢詰め寄って討ち果たしてしまった。

これを見て、元盛の手の者たちは、
「なんと口惜しいことだ。さあ、ただ切ってかかり、景盛を討って主君の孝養に報おうではないか」
と色めきたった。
景盛は使者をやって、「元春公の仰せに従って、どうしようもなくこうして討ち果たしたのだ。
私自身に遺恨があってこんな振る舞いをしたのではない。さあさあ、鎮まってくれ」と伝えると、
元盛の郎党たちも、「それでは仕方がない」と、皆戦いをやめた。

また景盛は使者をやり、「元盛の二人の子も殺せとの、元春からの仰せである。
不憫ではあるが、早く首を打って差し出せ」と言い送る。
兵たちは、長らく仕えた重恩ある主君の子に、どうして刀を突き立てられようかと、
心を乱しただ涙に暮れていた。
景盛からしきりに催促があって、別所雅楽允がようやく二人の子供を連れ出して、
塀の上で撫で斬って放り出した。憐れで目も当てられない有様だった。


以上、テキトー訳。続く。

景盛、悪いやっちゃな。
ていうか遺産分与の恨みってオソロシイな。

なんでこの章を読んでみたかというと、
毛利軍で忍者を使っていたという噂の杉原盛重さんが気にかかるというのもあるんだが、
この先に「粟屋彦右衛門」の名を見つけてしまったのさ。
そう、あの木原兵部と赤川又五郎を討った粟屋さんだよ。
またまた上意討ちで活躍してくれるんだろうか。
ちょっと期待。
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