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2018-03-24

経言小笠原入嗣騒動考②

第2回目は輝元の言い分を見ていこうかと思ってたけど、
①で読んだ起請文のすぐ後ろに、その起請文についての覚書があったので、
まずこれを片付けます。


●吉川元長自筆覚書(吉川家文書 1248)

     内覚

一、今度又二郎(経言、広家)を人質として上国させることについて。

一、当年の春に、あの者の進退について、私に対してお約束くださり、ありがたいことです。
  ただ、確実に実現するかどうかわからないので、
  あの者の身の上をわかっていただいてから上国させたいと思いました。

一、元春と経言からはすでに申し上げているので、
  何か言いたいことがあっても申し上げることはないでしょう。
  せめて私から弁明しておきたく、元春と経言に尋ねてみたところ、
  私の考えに任せると言ってくれたので、私から申し上げました。

一、銀山については始め、元就から元春へ沙汰があったことについて。
  それに伴う番衆のことについて。

一、この書状は、ご一覧ののちにすぐに返してください。
  もし上さま(輝元)に仰せられるのでしたら、書中の内容をよくよくご理解いただいたうえで、
  口上で仰せになってください。それならかまいません。

     以上

以上、テキトー訳。

ふむふむ。
覚書というか、これも書状の一種なのかしら?
①の起請文を持たせた使者の口上内容、という風にみると非常におさまりがいい。
宛てどころは起請文と同じく、小早川隆景、福原元俊・貞俊なんだろうね。
使者がこの覚書の内容を向口上で述べてk証文を渡し、隆景、元俊・貞俊が起請文を確認した後に
起請文を回収して帰ってきた、といった感じかな。

私は最初、①の起請文を、背後にいる輝元を含めた隆景・福原グループ、
そのひとまとまりに宛てた抗議文として捉えていたけど、
今回の覚書を見ると、隆景・福原は輝元とは別の勢力として元長に認識されているみたい。
輝元ではなくその別勢力に①のような起請文を出す元長の意図は何なんだろうなぁ。
起請文てのは味方につけたい相手に送るものだから、つまり、
隆景と福原に対して、協力してほしいという要請なのかもしれんね。

しかし元長、本当にいい兄貴だなぁ。
私は、小笠原入嗣騒動に関しては、意外に元長がキーマンなんじゃないかと睨んでます。
そのわけは追い追い……

さて、次こそは輝元の言い分を見ていこうか。
2018-03-21

経言小笠原入嗣騒動考①

まとめ切れないと言ったそばからやってみたくなる、
そんなとりとめのない日々を過ごしています。
本当は掃除とかしないといけないんだけど、元長のお手紙が長すぎて、
現代語訳にほぼ1日費やしてます……元長、おそろしい子……

ここんちは爺さまの代から長い手紙書くから、楽しいんだけど、ちゃんと読もうと思うとしんどいね~。

さてさて、念願の小笠原入嗣騒動に着手してみましたよ。
この件について気になる方は、当ブログなんぞより、光成準治先生編
『シリーズ・織豊大名の研究 4 吉川広家』(戎光祥出版、2016年)を読まれるといいと思いますよ。
ちゃんと当時の書簡に従って研究されてるからね。

私は別方面からのアプローチを試みます。
ずばり、隆景と毛利氏重臣福原氏に宛てられた、元長の弁明から、吉川家の言い分を見ていきたい。
手抜きバンザイ!

ものすごく長いけど、読む気力のある方は、天正11年に経言=広家が秀吉への人質として
差し出されるにあたって、吉川家当主また経言の兄である元長がしたためた起請文だということを
念頭にお読みいただきたく。


●吉川元長起請文(吉川家文書之 1247) 

   隆景、福原元俊、福原貞俊 参     治部少輔 元長

 弟である又次郎(吉川経言、広家)を、ご命令通りこのたび上国させることにしました。
 又次郎の身の上に関しては、以前からさまざまに問題が取りざたされていて、
 私としても頭を抱えていました。
 とるに足らぬような者たちが、あれこれと噂したのでしょう。
 その問題の始めから終わりまで、あらましを申し上げておくことにします。

一、備中飯山の陣において、小笠原次郎右衛門尉(長治、小笠原家一門衆)より、
  市川雅樂允(経兼)を通して、元春に歎願がありました。
  長旌(岩見小笠原氏当主)に男子がいないため、私の弟である松寿(元春四男、天正六年死去)を養子に欲しいと
  元春に申し入れようとしていたところ、不慮に死んでしまったので、
  又次郎を養子としてもらえないだろうか、とのことでした。

  元春はすぐに市川雅樂允を私のところへ遣わし、
  次郎右衛門尉からこのように言ってきたがどうしたものか、と相談してきました。
  私は「これは大ごとですから、よくよく考えなければなりません」とだけ返事しました。
  承知したわけでも拒否したわけでもありません。
  それなので元春は、次郎右衛門尉に対して
  「この件に関しては決断を催促しないほうがよい」と断言しました。

  すぐ後、南条元続が反乱を起こして因幡・伯耆の情勢が再び不安定になりました。
  私は伯耆の八橋に駐屯して対処にかかりきりになってしまったので、
  小笠原家程度のことを沙汰する暇もなく、
  次郎右衛門尉からも何も言ってこないままに時間が過ぎました。
  
  伯耆の津波並陣にて、次郎右衛門尉が小笠原弾正忠ほか重臣たちの連署状を携えて
  申し入れてきましたが、以前と同じように答えて、一切承知しませんでした。
  そうしたところ、年末になって口羽通良から静間図書允が津波並陣まで遣わされてきました。
  小笠原中務少輔(長秋)から通良へと、このような申し入れがあったそうです。

  「次郎右衛門尉は元春の了解を得たでしょうか。
   それほど急ぐ話でもありません。
   次郎右衛門尉自身は吉川の家に出仕していますが、小笠原はそもそも国人です。
   いろいろ事情がある家でもあると思います。
   元春も、又次郎どのが養子に入ったら、
   長旌の代より所領を増やしてやりたいと思われることでしょう。
   どのようにしたらそれが実現できるのか、私にはわかりません。
   次郎右衛門尉はどのように考えて、この一念を通そうとしているのでしょうか。
   こう申しましたが、私は時勢を心配しているだけです。
   元春が承知してくださるなら、次郎右衛門尉同様に協力を惜しまないつもりです。
   ですので、どうか許諾の証文を得るためにご協力ください」

  元春へと直接書状を差し出すのは遠慮して、通良まで申し入れたとのことです。

  そこまで言うならばと、元春は、
  中務も次郎右衛門も、同様に長旌そのほか小笠原家中の者たちも一同に
  賛成して申し入れてくれば、隆景ならびに毛利家の重臣たちに相談し、
  上さま(輝元)にもうかがったうえで返事をしようということになりました。

一、小笠原家に対しては、家城ならびに本領を返還し、長旌を父と呼んで大切にし、
  家来ももちろんそのまま召使う、という条件です。
  経言一代限りは血縁者ですが、ゆくゆくは他人になっていく間柄です。
  小笠原家としてはこの養子縁組で念願を果たすことができるのだから、
  将来的に毛利・吉川との関係をなおいっそう強めることになるであろうと、
  元春から静間に対してその利点を説明しました。
  静間もそれは覚えていると思います。

一、その後、上さまから養子入りを止められて、あまりに外聞がよろしくないため、
  せめて長旌の娘との縁辺だけでも整えてほしいと
  経言やその家来たちがしきりに言ってきました。
  元春は通良に相談しました。また、児玉市介(春種)を使者として
  輝元に伺いを立て、祝言の準備をしました。
  また経言が「河本の要害をぜひとも預かっておきたく思います。
  そうしていただけないならば、思いがけない行動に出るかもしれません」
  などと言うので、元春はこれ以上外聞を失うことのないようにと考え、
  祝言と河本の要害について手配しました。

一、そのころ、上さまから二宮太郎右衛門尉(就辰)が新庄に遣わされ、
  元春に通達がありました。その時の御書は今でも残してあります。
  私は伯耆の八橋にいましたが、そちらにも同様の通達がありました。
  この御書も所持しています。
  私は返事として、上記の内容をお伝えしました。
  おそらくこの返事を上さまと一緒に聞いた人がいるでしょうから、
  お尋ねになってみてください。

  またそのころ、平佐藤右衛門尉(就之)・児玉市介を元春のところへ遣わされました。
  あの人に対する上さまからの御書も拝見し、写しを作成してあります。
  この件について、複数の御書の御文体ときたら、あまりの剣幕で、
  まったく理解できませんでした。
  それというのも、こちら(吉川家)としては全く他意がないからこそです。
  もちろん、上さまの御意に背くつもりは毛頭ないので、
  それほどきつく仰せになられずとも、ご命令に従うつもりでした。
  それというのに、あのような仰せではあまりに外聞が悪いことです。

一、以前、長旌の奥方から要害のお局様へお話があり、上さまからの御書もあります。
  このような経緯もあったのですから、この件は
  経言の心得違いばかりとも言えないのではないでしょうか。

一、そもそも、小笠原家に実子ができないために養子縁組を申し入れてきたのですから、
  私の兄弟から一人を養子に出すとしても、まったく筋目のないことでもないでしょう。
  皆さんご存知のように、長雄(小笠原長旌の父)の奥方は
  新庄の出身です(吉川元経の娘)。
  日頼さま(元就)の筋から考えると、元春にとって、長旌は伯母の子に当たります。
  吉川の家筋からすると、元春の伯父に当たります。
  元経の子である妙玖さま(元就夫人)の血を引いているのですから、
  筋目がないとは言えません。
  そのうえで小笠原家を取りつぶすという決定をしたのなら、それこそ、
  元春が時の威勢に乗って国人衆の家を差し押さえたと非難されてもうなずけます。

  小笠原の一族は、日頼さまとは特別に懇意にしていた家です。
  とりわけ長旌については、隆元さまが縁者として遇したので、
  周防での戦争の際(陶晴賢との抗争)には他の国人衆より抜きんでた活躍をし、
  毛利家に対して無二の忠節を遂げました。
  しかしその後、小笠原は周防・出雲と示し合わせてこちらを裏切り、
  御当家の敵となって戦争に及んだこともありました。
  周防が毛利の支配下にはいると、すぐに小笠原の家城のある温湯城を攻めました。
  一旦は小笠原を切腹させると決まりましたが、命乞いがあったため
  隆景・通良が和議をととのえて、一命を助ける代わりに本領と家城を没収しました。
  そのため小笠原は小さな所領に居を構えて暮らしています。

  小笠原が河本で切腹していたならば、その跡目は元春に与えられるはずでした。
  小笠原は周防・出雲が敵となったら御当家が負けるだろうと予想し、
  この吉川家の所領を長雄の隠居所にしたいと、周防・出雲に申し入れ、
  了解を取り付けていました。その証文も残っています。
  こちらの勝利が決まると、小笠原の跡目を元春に与えてくださるよう、
  長雄から申し入れがあったそうです。
  しかし長雄の命は助けることになったので、領地の河本だけが元春に与えられました。
  この地は今でも吉川家が領知しています。

  このような経緯があったけれども、隆景と通良が和議をまとめたので、
  元春も私も小笠原家に対して少しも欲心はありません。
  下々の者たちまで、境目を堅固に保つよう申し付けてあります。

一、養子縁組については、三吉からも祝宮内を使者として元春に申し出がありました。
  吉田(輝元)からのお許しがあれば、長旌を説得するとのことでした。
  元春はこのように返答しました。

  「長旌から次郎右衛門尉への内々の書状はあるが、表向きのことは
   中務に対して遠慮があるため、今も長旌の了承は得られていない。
   そのため、吉田にもこの件はご相談する段階にないので、許可状も受けられない。
   ご協力のお申し出はありがたい。
   まずは長旌への説得を試みてもらえないだろうか」

  こう返答して、使者を返しました。

一、国人衆などの養子契約については、その前例は数多くあります。
  私ごときが口幅ったく言うようですけれども、挙げてみます。
  隆景はすでに竹原の家督を継承され、小早川家を治めていらっしゃいます。
  筋目がないようにも思えますが、竹原(小早川)興景の奥方が
  毛利家出身である(毛利興元の娘)ご縁によるものです。
  元春は吉川興経の養子となり、当吉川家を治めました。
  この筋目は今さら言うこともないでしょう。

  元政は天野元定の跡を継ぎ、天野家を領知しています。
  宍戸元孝の弟(元盛)は、内藤隆春の家を継承しました。
  椙杜隆康の家は元康が継承することになりましたが、
  元秋が思いも寄らず病床に伏してしまったため、その名代として
  富田の要害にいったん在番しています。
  椙杜家の継承問題も放っておくことはできません。
  元康の代わりとして、志道元保の次男、少輔四郎を仰せつけられました。
  これらは、何の筋目もない縁組ではないのですか。
  いくらでも掃いて捨てるほど前例があるではないですか。

  今回、小笠原家中の者たちが経言を養子に欲しいと言ってきたのは事実です。
  しかし彼の家中にもそれを承服できない者がおり、毛利家へと
  元春や私がことごとく非道を行っているように言いふらしたため、
  このような笑いものにされてしまいました。是非もありません。

  そのうえ御当家の方針とは異なるからといって、
  吉川一族すべての未来を失うほどの取り沙汰をされ、
  まったくこれ以上ないほど当惑しておりました。

  養子・養父の関係はどこを見ても存在するものだというのに、
  元春や私へのなさりようは、いったいどうしたことなのでしょう。
  道理も何もあったものではないと思っています。

一、御当家に対して、隆景・元春が協力を惜しまないのは当然で、言うまでもありません。
  日頼さまは近年、周防(大内氏)と出雲(尼子氏)の間に挟まれて
  気を休める間もないときも、当家の元春はできる限り力を尽くしてまいりました。
  今までも同じようにしてきているというのに、
  そのなかで、何か間違っていたことがあったということでしょうか。

  出雲に尼子勝久が攻め入ってきたときも、反撃の戦略を整えられ、
  一旦治まると、宍戸隆家・通良・元春を押さえとして残してゆかれました。
  日頼さまがお亡くなりになったときには、情勢が不安定になりましたが、
  周防・出雲両国に反撃し、日頼さま以来の御当家の威光が衰えないよう
  元春は手を尽くしてきたではありませんか。

  そのほか、山陰地方で、今日に至るまで苦労を重ねてきたことはご存知でしょう。
  ご命令に従って、山陽にも何度も出向いています。
  自分の都合を捨て置き、戦やその準備に明け暮れてきました。
  こんなことは、皆さまよくご存知のはずです。
  これほどまでに御当家の戦に専念してきたのですから、
  私の兄弟の一人をお引き立てになられ、立派な武人として扱っていただき、
  御用にでも立てていただけさえすれば、
  少ない分限で数年苦労してきたことをわかっていただけたと思い、
  感謝の心でいっぱいになることでしょう。

  ほかの国人衆の次男や三男にさえ過分の扶助を与えられています。
  抜きんでての扶助が欲しいわけではありません。
  人並みに、また働きに応じた報酬があってもよいではないですか。
  将来、他国の国衆を制御されることについては、戦略の内と思いますので
  口を挟むつもりはありません。
  けれど何もかもすべて遠慮して言わないでいると、扶助をいただくこともできません。
  養子縁組をしたいと言上することすら許されないというのでしたら、
  言うべき言葉も見つかりません。

一、この子細はことが起きたときすぐにお伝えするべきだったかもしれませんが、
  次郎右衛門尉・中務の二人から連絡があっただけで、
  家中のだれもが知っているわけではありませんでした。
  不調法な人とは言え、長旌からも何も言ってきていません。
  あれこれと間で取り次いだ者も少ないので、私の言い分の証拠となるものがなく、
  誰にも言えませんでした。
  また、この件が上さまから差し止められてからは、今日に至るまで
  遠慮ばかりしていて、誰にも言いませんでした。

  今になって言おうと思ったわけは、経言が人質として上洛するにあたり、
  以前から心の内に秘めていた考えをすべてさらけ出してしまおうと思ったからです。
  それにこのままでは、経言があまりに不憫ではありませんか。

  元春と経言は、小笠原家に関しては二度と言上しない旨、固く約束しています。
  その理由は察して余りあります。
  経言の進退について、小笠原家のことは少しも話題にする気はないようです。
  とりわけこのような時期にそのようなことを言い出せば上国にも支障が出るでしょう。
  私自身は最初からそのような約束はしていないので、
  このような時期にこそこそわかっていただくべく、申したまでです。
  このような遠慮ばかりを重ねて、何かあってから後悔することになってはと、
  心の中を残らずぶちまけました。

一、このたびの上国は、もちろん、ご命令に従ってのことです。
  経言はすっかり外聞を失ってしまったので、これ以後、
  大きく取り立てられることはないとあきらめていますが、
  当年の春、上さまから大いに御意を加えられました。
  このたびもまた罷り出て御用に立つようにとのご命令ですから、
  そのことを忘却すべきではなく、お受けいたしました。

  再び経言がこの地に帰ってこられるかどうかはわからないのですから、
  進退を云々しても仕方ありません。
  私のためにも、何も言わないでいるのがいいと思っているようです。
  将来の望みもなくなったというのに一身をなげうつ経言が不憫でたまらず、
  申し上げました。

  元綱(小早川秀包)にはいろいろと手を差し伸べていらっしゃいますね
  (備後国人大田英綱の跡を継承、後、小早川隆景養子)。
  経言とどう違うというのでしょう。
  二人一緒に人質となるのですから、一人とびぬけて重責を負うわけではありませんが、
  命を失う可能性もあるので、公私ともに一つの心残りもないようにしてから
  上国したいと考えているようです。私や元春もそのように考えています。

一、経言は、今となっては、元春の老後の支えとして手元に置く予定でした。
  しかし元春は、必要なときに御用に立つために、
  老後のことも差し置いて、人質に差し出すことにいたしました。
  このような元春と私の心底をご理解いただき、お取り扱いください。

一、だいたいにして、経言の進退をこの時節にあれこれ言うのがよろしくないと
  お考えになるならば、そのように仰せになってください。
  元春・経言にもそのように心得るよう申し聞かせます。
  これは、御当家に対しての私の役目だと思っています。
  たとえ経言には憐憫をかけていただけなくとも、我々父子は御当家に対して
  変わらず忠節を尽くす所存です。
  そのように内々お伝えいただきたく、お願い申し上げます。

一、くれぐれも、小笠原家のことは、我々父子四人から申しかけたことではありません。
  もしこれが偽りなら、(以下神文)

   天正十一年八月十三日     元長(花押)
     隆景、元俊、貞俊 参

以上、テキトー訳!

はぁ……元長さん、相変わらず熱くて惚れる……すごく好き。
起請文ていうより抗議文なんだよね、これ。

言いたいことを整理すると。
①発端は吉川家側じゃなくて小笠原家中の人物からの申し入れだよ。
②吉川家としては、小笠原家中の意見がまとまるまで承諾できないと言ったよ。
③吉川家が信長に対する戦の算段に没頭していたたため、養子入り承諾を保留しているうちに
 小笠原家中の経言養子入り反対派が讒言をして、輝元の反対で養子入りは破談になったよ。
④じゃあせめて、結婚と経言の領地問題だけでも先に進めようとしたら、
 輝元がすごい剣幕で反対してきたんだけどどういうことなの。
⑤そもそも小笠原は血縁的に何の縁もない家でもないし、
 ほぼ縁のない養子縁組がまかり通っている現在、吉川だけ妨害されるとかイミフ。
⑥元就以来忠節を貫いてきたのに、その吉川に対する仕打ちがこれか。
 少しは思いやってくれてもいいんじゃないの。
⑦この騒動のせいで将来を失ったのに、けなげにも、明日をも知れない人質に赴く経言がかわいそうだろ!

いや、整理しきれんな。盛り込みすぎ。
ちょっと、「狡兎死して走狗煮らる」って故事成語が頭をよぎりました。

私はね、この騒動に関しては、先行研究には欠落している視点があると思うのさ。
おおむね、「宗家=輝元の下知に従わない経言」がクローズアップされ、
輝元には勢力を伸ばす吉川家に対する警戒心があった、とかなんとかまとめられるんだけれども、
じゃあ吉川家の言い分はどうなの、ということに関してはあまり触れられない。
なので今回、元長の言い分をガッツリ読んでみた、という寸法。

養子縁組の手順として、当事者間(ここでは吉川・小笠原)である程度合意ができてから
上(輝元)に上申する、というのは問題ない手続きなんだと思われる。
多くの養子縁組を見てきた元春がそのように進めてるので、おそらく。
それに手続き上の問題であれば、後から修正可能なはずだけど、これはどうにもならんかった。

それなら、何が問題なのか。
経言の野心に言及されることが多いように思うけど、
輝元が反対した理由の正当性というか妥当性はどうだったのか?
元長のこの起請文を読むにつけ、輝元の下知に妥当性がなかったために、
経言が強く抵抗し、数年間にわたる大問題になったのではないか。

なぁ~んてことを思うんだけど、それを検証するスキルと時間が私には足りません。
それに、そもそも私は大の吉川びいきなもので、私情がバリバリ入ります。
だってさ、だって、こんなの、経言だけじゃなくて、元春も元長も不憫じゃないか!!!
2018-03-19

新社会人に対する恵瓊さんのハイパーお説教タイム

結局新しいPC買いました。
あとは死んだマシンのデータを取り出さなきゃなんないんですけどメンドい。

てなわけで、まあ更新しない間いろいろ流し読みをしてきたけれども
何かしらテーマに基づいて読んできたわけでもないんですね。
再開一発目は、キャラの濃い恵瓊さんのお手紙を読みたいと思います。

時節柄、新社会人デビューを控えた人々に響くかもしれないと思ったがそうでもなかった。

■萩藩閥閲録遺漏 大多和惣兵衛蔵書 1

安国寺恵瓊、大多和与次兵衛(元直)へ教戒の書簡写

大 与     一任 恵瓊

あなたの勤務態度について、何度か対面して話し、また書状でも注意してきました。
一時は「心を入れ替えました」などといって出向いてきたこともあったのに、
きちんと仕事をしているようには見受けられません。
佐与(佐世元嘉)からも、二日ばかり前、そういう報告が届いています。
あの人も(あなたを斡旋したことについては)悔やむばかりでしょう。

さてさて、あなたについては、父の河内(大多和就重)より男ぶりも良く、
生まれてからこれまで、十分に教育を受けてきています。
親の領地を引き継いでおり、年も若いので、
これから殿様(毛利輝元)に奉公するのに何の問題もありません。

後ろ盾としては私や佐与がいるのだから、あなたがそれほど役に立たなくとも、
仕事仲間にそこそこ認めてさえもらえれば、あなたを出世させることはできます。
それなのに、どういうつもりですか。
あなたがいい加減な気持ちで勤めてそれが見咎められたならば、
そんなあたなを贔屓することは私にもできないことです。

良いことは良い部分を伸ばし、悪い部分は悪いものと切り捨てるのが、
この国における私の使命です。
あなたが不心得のままであるならば、私は真っ先にあなたの敵となるでしょう。

下記、注意点です。

一、業務に関しては、御小姓衆の児玉小次郎(元兼)、平佐源七郎(元貞)などの
  やり方を、続きの部屋からよく見るようにしなさい。
  さてさて、殿様の御身近く、あのように召使われたいものだ、と思いませんか。
  また重臣のなかでは、佐与、二太(二宮就辰)のように成り上りたいと考えてみてください。
  仕事中は普段からそう心掛けてほしいものです。

一、これまで見てきた様子だと、出勤前のまだ家にいるときから
  「ああ、めんどくさいなぁ。今日は何をしたらいいんだろう。
   そのあたりの物陰で無駄口をたたいている愚か者たちと寄り合って、
   誰かの悪い噂でもして盛り上がれればいいなぁ」と思っているようです。
   
  良い人と交流して業務のことを学び、一日でも早く出世したいと思うでしょう。

  誰に対しても、無礼はいけません。
  福原殿などの御親類衆に対しては言うまでもないですが、
  渡石(渡辺長)などの重臣の方々がおいでになったときも、
  姿勢を整えたうえで様子を見て御礼を述べ、「ご無沙汰をしております」とか、
  遠くに使者として行く人には「ご苦労様です」などと言うといいでしょう。

一、主人のことを一番に考えて奉公しなさい。

一、仕事仲間に憎まれないようにふるまいなさい。

一、佐世殿の恩を忘れないようにしなさい。

一、母上様の恩、亡き父上様への弔いだと思って勤めなさい。

一、親類たちの意見に従いなさい。

まだまだ言いたいことはたくさんありますが、体調が悪いため、
今回はここまでとします。          恐々謹言

   九月八日     恵瓊 判
     大 与 まいる

以上、テキトー訳!

私、AKさんの書状、好きなんですよ。
勢いがあるというか、言い回しが面白いというか。
そこいくと、広家はまだおとなしい印象かなぁ。
同じような強い勢いを感じるのは、元長の書状だったりします。

今回の書状、AKさんてばパねえわ。
堂々と「贔屓して出世させてやるからそれなりに仕事しろよ」っつってるね。
やっぱさ……贔屓とか、コネとか、大事なんだね……

よく、法度で「贔屓だて禁止」って出てくるから、禁止されてるものだと思ってたけど、
法律でわざわざ禁止されるということは、横行して弊害が出てたからこそなんだなぁ、と。

お説教相手の「大多和与次兵衛」については全く調べてません!
佐世元嘉のコネで輝元近習もしくは小姓衆に加えられたのは、文脈からわかるね。
そんでもって、AKさんと佐世さんががっつりタッグ組んでんのもわかるね。
毛利家の人事権のいくらか(新規登用分あたり)は、この二人が掌握してそうだね。

というかね、輝元の中央集権を進めた「出頭人」制度の代表格が佐世元嘉なわけじゃない。
出頭人というのは、出身や身分に関係なく「能力のある者」が採用されると思ってたんだ。
でも、「出頭人=能力のあるもの」という図式は、本当に成り立つんだろうか?
論理的にはおそらく成り立たないと思う。

実際の事例において、
 ・どんな能力が
 ・誰(既存の家臣団)に比べて
 ・どの程度上回っているのか
という点で、検証されたことがあるんだろうか? むしろそれを検証し得るんだろうか?
という疑問が、この書状を読んでむくむくと大きくなりました。

輝元側近「出頭人」人事は、いわゆる「お友達人事」ってやつなんじゃないかと……

この疑念を強く持った端緒は、広家の小笠原入嗣騒動を調べていてなのですが、
そちらはまとめ切れていないので、また後日。
2018-02-26

泳いでまいった(嘘)

勤務地が変わったり引越したりしている間に過ぎる年月……
気がついたら去年広家研究書が出版されてました。ビバ!
だいたい読んだことある論文だけど、一冊にまとまってるのは素直に嬉しいです!

なんだかコメントとか放置しっぱなしでごめんなさい。
PCが壊れたりログイン情報忘れたりしておりました。
ツイッターのアカウントさえ思い出せないのが痛い。

ようやく引越荷物から陰徳記引っ張り出したと思ったら
またマシンが起動しなくなったよ、
どーなっとんじゃ、win10様よ。
アップデート不具合なのはわかるけど自力で復旧は六ヶ敷候。
ああ……在りし日の資料写真データだけは助かってくれ。

とりあえず、ログイン情報思い出せた記念に書き込みますが、
マシンが復旧するか新しいPCゲットするまで更新できません。

あとコメントの扱いも、スマホからだとどーしていいやらわからんので、ちょっとそのままにさせてください……

無念。
2013-12-02

とある吉川家臣の遍歴(下)

前回のあらすじ:
吉川興経に仕えた朝枝加賀守は、興経幽閉の際に吉川家を立ち退き、沼田で小早川家臣となった。
加賀守は小早川家中では高家である有田家の所領を相続し、有田姓を名乗る。
そして有田加賀守として、厳島合戦や須々万城攻略で武名を挙げ、
さらに九州の国人衆懐柔に奔走したり、伊予河野氏への検使としても活躍した。
河野大方(宍戸隆家嫡女)の手引きで妻を娶り、実子半兵衛が誕生するも、
後継ぎとして引き取っていた、亡き弟三郎左衛門の遺児である右京に跡を継がせる。
天正12年10月9日、死去。享年不明。
右京は安芸に引き移った河野母子のそばで仕えたが、
河野通直が死去すると隆景のいる筑前に移り、肥後国人一揆鎮圧の際に戦死した。
天正16年12月2日、享年41歳。

そういえば、朝枝加賀守・三郎左衛門に関しては、
『陰徳記』の「少輔次郎元春、吉川家相続のこと」にちょろっと出てたねw
こっちでは二人とも小早川に越したことになってました。

というわけで今回は、右京のの跡を継いだ半兵衛の訳に挑戦していきたい。
例によって()内は管理人による補足でござんす。


●朝枝嘉右衛門聞書(岩国徴古館蔵「吉川家臣覚書」)②

【朝枝半兵衛景進】

幼少のとき、加賀守・右京と死に別れ、加賀守の後妻が津生和泉に再嫁したので、和泉のもとで育った。
同腹の妹が二人おり、一人は浅野甲斐守の家来となった横見四郎兵衛の母である。
もう一人は福島左衛門大夫(正則)の家来、鶴見平右衛門の妻となり、
平右衛門が牢人すると京都の三条通に住まい、平右衛門が死去すると、
岩国の半兵衛のもとで暮らして死去した。瑚□慶珊大姉。

半兵衛は、小早川家では有田姓を名乗った。
有田右京の跡、20貫を相続し、幼年から隆景公の御手廻りでご奉公した。
二度の朝鮮出兵にも従軍し、最初に渡海したときは14歳で、小姓として召し連れられた。

隆景公がご他界なさった後は、本家の輝元公が
粟屋四郎兵衛(景雄)・井上五郎兵衛・椋梨和地・堅田和地(大和守元慶?)・梨羽をはじめ
小早川家の衆を召し抱えてくださったので、長門のイクモ(生雲)村で380石の知行を拝領した。
その後二歩上がりの新縄になり、500石に加増された。
梨羽壱岐(景宗)と同等の分限である。
この者たちが、(輝元の)次男の日向守(就隆)様に小早川の名字を名乗らせ、
御家を再興させてくださるようにと申し出たが、実現しなかったため、
御本家から立ち退いたとき、半兵衛も一緒に立ち退いた。

半兵衛はあちこち浪人しているうちに広島にやってきて、福島左衛門大夫殿にお仕えしようと考え、
左衛門殿の帰国を待っていたところ、江戸で左衛門殿が遠島を仰せ付けられてしまったので実現しなかった。
  〔(朱書注)左衛門大夫遠島……とあり、その後大坂陣で花房が……とあるのは年代が合わない〕

こうして広島に足を留めていると、広家様がお聞き付けになられ、
桂但馬(春房)を通して岩国に来るようにと仰せになったので、関ヶ浜までやってきた。
桂但馬を通じ、「(吉川の)御家に召し置かなくてはならない家筋なので召し抱えたい」
と伝えられ、ありがたく存じ奉り、ご奉公申し上げた。
当面の堪忍料として、60石の知行を与えられ、追って加増してくださるとのことだった。

広家様の一代のうちは、使番を仰せ付けられて、あちこちへと遣わされた。
大坂陣の前には、西国の様子を探るために(幕府より)花房助兵衛殿(職秀、職之)が
備中へと遣わされてきたので、指示を仰ぐために半兵衛が使者として遣わされた。

備中の助兵衛殿の宿所に参上すると、口上は直接お聞きになるということで、
助兵衛殿の家老一人とともにまかり出て、対面した。
助兵衛殿は炉の脇に半兵衛を呼び入れると、家老に対して
「続きの間には三間ほど掛け金をかけてくれ」とお命じになり、
家老には「そこで話を聞いているように」と仰せになった。
広家様の御口上をお聞きになると、助兵衛殿はこう仰せになった。

「このたびは私の方へのお問い合わせが遅かったので、それはそれは心配していたが、
こうして書状と口上を承り、さてもさても安堵した。
それというのも、江戸の家康公の御前にて、亀井能登守(政矩)が
『吉川も大坂籠城の人数に加わると聞いております』などとを言い出したのだ。
家康公はそれをお聞きになり、『なんと、そうだったのか。
最近では弓矢(戦)の剛者は広家の他にはそうそういないというのに、
なんとも苦々しいことだ』と仰せになられた。

そのとき私は、『広家が籠城するという情報をお確かめになってから仰せください。
そのようなことはありえないと私は思います。
上様もご存知の通り、私は広家とは特別に心安い間柄です。
彼の人の所存もよく存じております。
十のうち十勝てるとわかっている合戦でさえも、思案を重ねるような性格です。
今回の大坂籠城は、大将は秀頼公、その他は旗本の若者共、あとは諸牢人を掻き集めたにすぎません。
百のうち百も勝ち目がないとわかっている籠城の人数に加わるような人ではありません』
と申し上げた。
すると能登守は、『今回の籠城の人数の確かなことはわかりませんので、
風聞を申したまでです』と言った。

家康公は、この助兵衛の申したことに納得してくださったが、
『しかし、関ヶ原陣のときに、広家は当方に別してひとかたならぬ忠義を貫いてくれた。
だから周防・長門の二ヶ国を広家に与えたが、
広家自身がこの二ヶ国を輝元に与えてくれるようにと固辞し、
それがかなわないときは輝元同様に牢人の身になる覚悟だと言うので、輝元に遣わしたのだ。
とはいっても大忠にほかならないのだから、そのほかに三、四郡ほどは広家に宛行うべきだったのに、
そうしなかったから腹を立てて籠城の人数に加わったのかと思った』
というご上意であった。
そう仰せられると私も何も言えない。
こんなことがあったので、こうして使者を立ててくれて、本当に安心した。

そうして大坂の陣が目前に迫ってきたので、私は西国の様子をうかがうために罷り上ってきた。
家康公もおっつけご上洛なされる。
そなたは急いで国元に帰り、私が申したことを広家に伝えて、
兵の人数はそろえなくてもよいから、早々にお手廻りの衆だけをお連れになって上方に行き、
大津・草津あたりまで家康公のお迎えにおいでになるように、と進言してくれ。
お迎えに行ったら、『ご上洛の噂を聞いて、手廻りだけで馳せ参じました。
もし御用があれば仰せ付けください』と家康公に申し上げるといい。
そうすれば、江戸で私が耳にしたご上意の件もあるのだから、
戦が終わったら一ヶ国は拝領できるだろう。
これについては、この助兵衛が保証してもいい」との御返答だった。

そのとき半兵衛はこう申し上げた。
「只今お聞きした、江戸の家康公の御前で仰せくださったこと、
それにお迎えのため早々に罷り上るようにとのご助言、
広家が聞けば、どれもこれも忝く存じ奉ることでしょう。
私ごときでさえ、このお礼の気持ちは心の底まで申し上げることができません。
実にありがたいことでございます。
しかしながら、家康公のお迎えのために広家が罷り上るというのは、
先程口上でも申しましたように、この二年ほど広家は病床に伏しており、何をするにも思うに任せません。
助兵衛殿のご内意をお聞きしても、私が考えますには、罷り上ることはできかねると思います。
そのようにご理解をいただきたく思います。
この件を申し上げないままお迎えに罷り出なかった場合、さぞご不審に思われるでしょう。
ですから、前もって申し上げておきます」

こう申し上げると、助兵衛殿は、
「ふむふむ、事情は確かに承知した。広家がおいでにならなければ確かに疑念をかけられよう。
よく気が付いて申したものだ」と仰せになり、ご自分の家老に対して、
「使者に参るときなどは、このような心遣いが肝要なのだぞ」と仰った。
そして小声になり、家老には聞こえないように、
「広家の御心中は、そなたの申す通りだと思う。しかしそれは考えが古い。
これからはそのようなやり方では通じない。このことを広家によく申し上げてくれ」
と仰せになった。半兵衛はお料理でもてなされ、帰国した。

帰宅して早々にこの件を広家様に申し上げると、
ご病気なので上坂できそうにないと助兵衛殿に申し上げたことをたいそうお気に召され、
「これは半兵衛の一存というよりも、神仏のご加護ともいうべきだ」と、
それはそれは御機嫌なご様子だった。
「明日、老中も同座して話を聞くから、この件を申すように」ということで、
老中がお揃いになってからこの話をし、広家様の意にかなうことができた。
大坂の陣へもお供いたし、大坂に着船するとすぐに助兵衛殿への使者に立った。

広家様の代に、分限が少なくて奉公を続けることができないため、二度辞表を出した。
しかし、後日取り立てると言われたまま、時だけが過ぎてしまった。
広正様の代には、萩に駐在して奏者役を務めた。
隠居を申し出て、かわって伊兵衛がご奉公すると申し上げたところ、お許しをいただいた。
「半兵衛の代のうちに取り立てたく思っていたのに、何かと機を逸してしまった。
普通の楽隠居だとは思わないでくれ。おまえの力が必要なときが来たら働いてほしい。
そのように心得ておくように」との御意だった。
2~3年して、主膳(吉川就紀、広正の子)様の後見役に山縣又右衛門が付けられ、
その副役を半兵衛が仰せ付けられ、江戸に罷り下った。
又右衛門は90石の仕組で罷り下るようにとのことで、その通りにした。

半兵衛は在世中に一代のことを書き表したいと申していたが、
「当家は私の代になって散り散りになり、その上親とは幼いころに死に別れたので、
これまでの書物なども失ってしまった。これではどうしようもない」と諦めていた。
半兵衛が内々に話していたことを書き出すと、以上になる。
きっとこのほかにもご用を務めてお役に立ったこともあるだろうが、
こうした事情があるので書き付けなかった。
このほか、キリシタンの宗門のこと(島原の乱か)で所司代板倉周防(重宗)殿へと
森脇源右衛門と半兵衛が罷り出て、首尾よく罷り下ったのでお褒めいただいたとのこと。

広正様の御代にも、子供が多数いたので身上を保てないから辞めさせてほしいと申し上げたが、
慰留されてご奉公を続け、こうして嘉右衛門まで続いている。


以上、テキトー訳。これでおしまい。

なんかな、加賀守・右京の代はそれほど目立った突っ込みどころがなさそうなのに、
年代が後の半兵衛の情報が一番怪しいってどういうことなの。
まず朱書で先人が突っ込んでいたように、
福島正則の左遷(元和5年)より大坂の陣(慶長19~20年)のが早いからそこがまずおかしい。
また、粟四兵ら隆景遺臣たちが出奔したのは、就隆誕生以前だって(「伊予の戦国史」管理人様のご指摘)。
これについては、秀包遺児とか、小早川家再興運動の神輿になった候補者が別にいて、
再興運動自体はあった可能性も捨てきれないそうだけど。
それに、根拠はないが、花房助兵衛とのやり取りが、ものっそいぁゃιぃ……よね?
だって、いきなりこんなに詳しいなんておかしくない?
まるで小説のワンシーン読んでるみたいよ。話盛ってるよね???
花助兵と広家の仲が良かったってのは、仲をうかがわせる書状もいくつか残ってるし、
あんまり疑わなくて良さそうだけど、家康発言による広家の持ち上げっぷりがな。
実にぁゃιぃ……

だがしかし。この半兵衛・花助兵会談は、これはこれで面白いので好きです。
史実かどうかは置いといてね。逸話として。
「確実に勝てる戦いにさえ慎重になる性格」って評価されるとか、
広家さん、花助兵と一緒のとき何したん……と、妄想が膨らむよね。
むしろ「慎重な性格」ってのは、半兵衛自身の広家への批評かもしれんな。
思い起こせよ関ヶ原……いや待て、あのときだって広家は、
「西軍の統率がバラバラで、こんなんじゃ勝てそうにない」って判断してたじゃん。
まあ私の反論はどうでもいいか。相手が花助兵にしろ半兵衛にしろ、もうこの世にいないし。

花助兵が「広家の考え方は古くて今の流儀には合わない」って指摘したのは、
いったい何を指すのかな~、と考えてみたけど、
「徳川方からの吉川への優遇や加増などを、宗家の毛利家や世情の評判を憚って遠慮している」
っとこが、「古い」と言われる部分なのかな、なんて思った。
だって慶長12年ごろから病気を理由に家康と距離置いてるんだよね、広家。
慶長6年には、秀忠・井伊→黒田長政ってルートで加増の話があったらしいし(真偽未確認)。
慶長8年の上洛時には家康から熱海の湯桶拝領してるし。
慶長11年の江戸の普請では、家康から「現場にいなくていいから熱海に湯治においで」って誘われてるし。
そもそも江戸証人からして「血筋の者じゃなくていい」って、かなりの優遇だよね。
毛利宗家の手前、こうした優遇はまずいわな。
断リ続けると今度は幕府が怖いし、となると接触を控えるしか……
というかまた私は横道に……反省。

半兵衛に話を戻すと、母親が子連れで再婚した「津生」さんてのがヒットしない。
いきなりつまずくかと思いきや、「坪生和泉守元貞」が小早川家中にいるみたいなので、
たぶんこれじゃないかと。
前回読めなかったメモ書き?部分の「□□生」は、きっと「つほ生(つぼう)」だ。
きっと写しを作るときに「坪」を「津」と書き間違えたか読み間違えたかしたんだろう。
よくあることだよね(私も今回読み・書き間違いともにひどい頻度orz)。
同母妹が嫁いだらしい横見某というのも、もとは小早川家中だよね。
鶴見はわからぬ……あと半兵衛が跡を譲った伊兵衛てのは誰だ。子の一人か。
次回岩国訪問時にでも、系図を見せてもらいましょうね。

そうそう、前回記事・今回記事ともに、人名検索に利用させていただいたのは、
村井良介氏の「芸備国衆家臣団一覧表」(pdf版)でござんす。
「右京=景勝」情報も、正確にはこちらから「伊予の戦国史」管理人様経由で。

用語についても今回調べきれんかったのが。
「二歩上がりの新縄」て何じゃ。「新縄」は「あらなわ」で、荒縄(太い縄)のこと?
なら、「二分増えて身上が太く(豊かに)なった」ってことかな?
「90石の仕組」ってなんだろう。予算のことデスカ?
基礎知識のない自分の身がうらめしい。
でも独学だったらこんなもんだよね(震え声

そんなわけで、吉川家臣→小早川家臣→毛利家臣→吉川家臣という遍歴を辿った
朝枝・有田三代を追ってきたわけですが。
『陰徳記』読んでて、「侍は渡りもの」って言葉にたびたび出会うわけだけど、
実例がこんな感じなのかな。
特にまとめらしいまとめはありませぬ。

その他、つらつら思うことは、長くなったしただの妄想だから、続きにて。


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